横濱コーポレーション株式会社
2018年12月24日
スタッフブログ
【成約事例】ベイルーム六浦南
《ベイルーム六浦南》
住所:横浜市金沢区六浦南2丁目
敷地面積:224.78平米
延床面積:199.98平米
構造:木造2階建て 10戸
用途地域:第1種低層住居専用地域
建ぺい率:50%
容積率:100%
六浦駅
神奈川県横浜市金沢区六浦五丁目にある、京浜急行電鉄逗子線の駅です。
横浜市で最も南に位置します。
現在は「むつうら」と呼ばれていますが
以前は「むつら」と呼ばれ、
中世の文書には「六面」・「六連」とも書かれているそうです。
六浦道(鎌倉道)
中世の代表的古道である六浦道は、文字通り鎌倉と六浦津と結ぶ道でした。
元来この道は鎌倉幕府の軍事的、経済的意図の基に開かれた幹線道路です。
金沢は、地理的に・軍事的に鎌倉の搦手に位置しており、
房総半島との交通の要・外港として重要な拠点でした。
六浦湊と朝夷奈切通(あさひなきりどおし)
仁治二年(1241)に工事が着手されたと記憶がある朝夷切通は
鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ幹線道路(六浦道)を開通させるために
山を切り開いて作られた道路です。
金沢・六浦は風浪を防ぐ良港だったため、
鎌倉幕府の外港として、物流の拠点となりました。
六浦や釜利谷で製塩が始まると、
朝夷奈切通を通って鎌倉に塩が運ばれました。
※地名としては古来から「朝比奈」が使われていますが
国指定史跡の正式名称は「朝夷奈切通」となっております。
元来この道は鎌倉幕府の軍事的、経済的意図の基に開かれた幹線道路です。
金沢は、地理的に・軍事的に鎌倉の搦手に位置しており、
房総半島との交通の要・外港として重要な拠点でした。
六浦湊と朝夷奈切通(あさひなきりどおし)
仁治二年(1241)に工事が着手されたと記憶がある朝夷切通は
鎌倉幕府が六浦と鎌倉を結ぶ幹線道路(六浦道)を開通させるために
山を切り開いて作られた道路です。
金沢・六浦は風浪を防ぐ良港だったため、
鎌倉幕府の外港として、物流の拠点となりました。
六浦や釜利谷で製塩が始まると、
朝夷奈切通を通って鎌倉に塩が運ばれました。
※地名としては古来から「朝比奈」が使われていますが
国指定史跡の正式名称は「朝夷奈切通」となっております。
長生寺
六浦の川郵便局の前で、県道原宿六浦線と金沢逗子線とが分岐しますが、
そこの歩道橋を北側に渡ったところにあるのが長生寺で、
寿楽山と号し、浄土真宗本願寺派に属します。ご本尊は阿弥陀如来です。
長生寺は もとは真言宗で無量院と言い、
釜利谷の小泉の谷戸にありましたが、
康安元年(1361年)に六浦の荘、川村平分に移りました。
文明年間に本願寺第8代門主、蓮如上人が関東遊化の折、
野島から横須賀浦辺までの船中で時の住職が上人に帰依し、
六字の尊号染筆と法名、釈頓乗を賜わり、
天文元年(1532年)、浄土真宗に改宗し当山開基となりました。
寺号を長生寺と改め、
寛永年間現在の六浦の荘、三分に移築されました。
開基、頓乗から五代目の長生寺住職了磋の弟、
桃渓は延宝三年(1675年)に六浦で生まれ、
幼いころ父に連れられて江戸に出て、
知空上人に見出されて僧籍に入り、京都で修行しました。
宗学、漢詩に優れた桃渓は宗門の逸材と呼ばれて、
本願寺で「典講」という役職につき、
大勢の修業僧の指導に功績をあげ、
近江の正崇寺住職も勤めていました。
師の知空上人が往生してからは、その後をうけて、
本願寺第三世能化職として衆望をあつめました。
後に自分の生まれ故郷、六浦の長生寺の中興にも力を尽くしました。
土地の仕入れ・ ファイナンス・設計・建設・賃貸募集・物件管理まで
ワンストップで行っております。
▼お気軽にお問合せくださいませ!!▼
お問い合わせ/会員登録/お部屋探し

応援して頂けますと励みになります。是非、クリックをお願いします!!
関連した記事を読む
- 2023/11/27
- 2023/11/21
- 2023/11/20
- 2023/11/20